〜社長物語〜

<大工なんて絶対いやだ!>
 「親に敷かれたレールなんて絶対歩かない!」
 わたくし実は、家業を継ぎたくありませんでした。

 周りには物心ついた時から「跡取り」と言われ、高3の進路選択のとき、就職希望の友達からは「お前は家帰れば社長だから羨ましいよ」なんてことも……。
 いやいや、なんで長男だから家業を継ぐって決まってるの!?
 俺にだってやりたいことがあるから!
 ……そうです、俗にいう二代目の苦悩です。

 本当は、役者か学校の先生の職に就きたいと思っておりました。
 大学の建築学部に進学したものの、自分の人生このままでいいのか?

 大学を卒業すれば教員免許は取れるが、卒業までは後3年...
 このまま本当に役者の夢を諦めていいのか?
 考えた末に、自分が一番に選んだのは、お芝居の夢を追いかけることでした。

 「そうだ!東京へ行こう!」

 18歳の夏でした。
 とはいってもあてがあるわけでもなく、東京の友人宅に居候し、何回かオーディションを受け、下北沢・渋谷を歩き回る日々。
 当時はとりあえず東京にいけばスカウトマンがいて何とかなると思っていたんですね。はっきり言ってアホです。
 収穫ゼロで東京を後にします。人生そんな甘くないです。

 ところが、数か月後ある会社から”まずは某芸能人の付き人見習いをしながら、練習生として住み込みで働く。一ヶ月後には東京へ来るように。”との条件が書かれた合格通知が届きました。

 天にも昇る気持ちとはあの時のことをいうのでしょうか。

<人生の転機>
 東京へ行く=大学を辞めなければいけません。

 ここで、私の親父の紹介をさせて頂きます。

 私の親父は、中学校を卒業後大工に弟子入り。
 人一倍金槌をふり、親方に認められ二十歳に現場棟梁。
 22歳で(ちょうど私が生まれた年に)独立。今の小嶋建設をつくりました。

 そんな職人気質の親父だから、まあ恐いこと恐いこと。
 イメージでいうと、瞬間湯沸かし器か寺内貫太郎。すぐちゃぶ台がひっくり返ります。


 本題に戻ります。

 ボコボコにされる。
 覚悟を決めて、大学を辞める報告をしに実家に帰りました。
 その時の出来事です。

 中学校時代の恩師から小嶋建設に、新築のご依頼をいただきました。
同級生が大工の見習いで働いていたこともあって、陣中見舞いのつもりで工事現場に行きました。
 そこにたまたま、先生が現場を見にきており、久々の再会を懐かしんでいたその時です。

 「いや~英嗣。小嶋建設に世話になって良かったよ。出来上がるのが楽しみでさ。これからも頼むよ」と 満面の笑顔 でおっしゃいました。

<心の変化>
 これから全く別の道を目指そうとしていた私の心に、その言葉が深く突き刺さりました。

 「もし、自分が帰ってこなければ、うちの会社はどうなるんだろう? 先生の家は、だれがこの先見ていくんだろう?」と。

 その時思いました。
 役者は、不特定多数の方に夢を与える素晴らしい仕事。
 しかし、「家」は特定の家族の夢を叶える、もっとかけがえのない仕事なんだと。
 親父を信頼 して家を頼んでいただいた方の為にも、息子である自分が守っていかなければいけない。

気持ちは固まりました。
<自分の作った建物が何十年もずっと残っていく>
 大学卒業後、仙台の中堅ゼネコンの会社に現場監督として就職しました。
 公共建築やマンションなど大型建築がメインでした。先輩方にも恵まれ、とてもいい職場でした。
 1年目の私は小学校の現場に配属。

 私は、とにかく早く仕事を覚えたい気持ちでいっぱいでした。

 朝6時には、現場中のジェットヒーターに灯油を入れ、事務所の掃除をし、7時に所長がくる頃には準備を終え、砂糖なしミルク2杯入りのコーヒーをすかさず出す。
 日中は、塗装屋や型枠大工さん、鳶さん等業者の手元をしながら現場をチェック。
 夜は写真整理、施工図面作成。

 目まぐるしく毎日が過ぎていました。3か月の間に休みは1日もなかったと思いますが、とても充実していました。

「仕事を学びながら、給料までもらえる。」

 とてもありがたい気持ちでした。



 初めて自分の携わった建物が完成したときは非常に感動しました。

「やっと、完成しましたね……!」

「自分の作った建物が何十年もずっと残っていく。素晴らしいだろ?だから作り手も 誇りをもって仕事 するんだぞ!」
と所長は言いました。

 その日は所長と深酒をしたのを今でも覚えています。



〈お客さんの夢を形にしたい!やっぱり家をつくりたい!〉


 徐々に仕事を任せてもらえるようになり、与えられた仕事にやりがいと責任を持ち、一生懸命取り組みました。自分の作った建物ができていくのは非常に嬉しく、達成感と充実感がありました。

 しかし、何現場かマンションの工事をしていくうち、ある気持ちが芽生えてくるようになりました。

 1Fと屋上の作りは違うけど、それ以外はほぼ全部同じ作り。

「この部屋ってどんな家族が住んで、どんな会話が生まれてくるんだろう・・・?」

「一軒、一軒、家族の想いは違うはずなのに・・・」

 次第に、「オーナーさんの顔も知らずに作り続けるよりも、直接お客さんから要望を聞いて、 お客さんの夢 を形にしたい!」という想いが溢れてきました。

<親子二代で感動したFPパネル>
 その後、八戸市の住宅会社に数年お世話になりましたが、父親より「人手が足りないから帰ってこないか?」との連絡もあり、いよいよ五所川原に戻ってきました。
 実はこの時まで詳しくは知りませんでした。 FPの家 という存在を……。

 まずは現場仕事からということで、建てこみ真っ只中の現場に行きました。

 初めて見るFPパネル。断熱材でこの強度はなに!? 

 無結露30年保証って(現在は50年保証)。今まで見てきた断熱材と物が違う!
そして抜群の暖かさ。なにこれ?正に目から鱗でした。

<親友の本当の悩み>
 実家に帰ってきて間もなくのことでした。

 親友が家を建てたいということで、打ち合わせをしに親友宅に行きました。

 彼は、5歳と3歳になる娘と、奥さんと4人暮らし。
ひとしきり打ち合わせを終えて、夕食をごちそうになり、その日は親友宅に泊めてもらうことになりました。

 少し眠りに落ちた頃でした。

 隣の部屋から「ゴホン!ゴホン!」と咳がしばらく続きました。

 翌朝、心配になった私は奥さんに「誰か風邪でも引いた?」と聞きました。

 奥さんは暗い顔で、重い口を開きました。

「実は、子ども2人とも喘息持ちなの……。病院から薬はもらっているんだけど、特に夜になると咳が止まらなくて……」

 これは、家が起因しているアレルギー性の喘息だと、直感的に分かりました。実は私も、アレルギーに敏感な体質だったからです。

 賃貸の家をよく見渡してみると、窓枠には結露によるカビが生え、壁にもカビやシミがあちこちに見つかりました。しかも、換気も正常に行われていませんでした。

 カビがあればそれを餌にするダニも繁殖し、目には見えないカビの胞子やダニの死骸、糞が空気中に蔓延します。

 親友の子どもたちはその空気を吸い、喘息の症状を引き起こしていたのです。

 私はとてもショックでした。

 家は一生のうち、約半分を過ごす場所。多くの時間を過ごす家が、不健康な環境であってはならない。
だから、素材や、断熱材一つひとつにこだわらなければならない……。

 私はそんな想いで親友に何度も提案をし、家づくりを進めていきました。

 4ヶ月後、お家が完成し、親友の家族がその家に住み始めました。

 しばらくすると、親友から一本の電話が。

「住み始めてからおかげさまで娘2人、咳がピタリと止んで、子どもたちも妻も夜ぐっすり眠れてるよ。
前より家や外で元気に走り回るようになって、本当に嬉しいんだ。本当にありがとうな……!」と。

 私は、胸が熱くなるのと同時に、改めて家づくりに対する大きな誇りと責任を感じました。

<変わることのない想い>
「気候風土豊かなこの津軽で、末永く幸せが続く暮らしを願うご家族のために、快適で健康的な資産価値の高い住宅をお客様の想いと共にこれからも作り上げていく……」

「想い」はご家族の数だけ存在します。私たち小嶋建設はご家族の想いを形にするパートナーであり、仲間であり続けます。お客様と共に悩み、共に楽しみ、共に感動し、共に幸せになりたいと思っております。

 小嶋建設のこの想いはずっと変わりません。

株式会社小嶋建設 代表取締役社長 小嶋英嗣
上へ